はじめての短歌 穂村弘 河出文庫

短歌に興味があるわけでもないのに何故か購入。昨日読みました。

想像以上に良書で短歌の本質がちょっと理解できた気分を味わえました。

「はじめての~」とか「~入門」というタイトルの本はだいたい面白いものです。

では感想。

 

鯛焼きの縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり 高野公彦

ほっかほかの鯛焼きなど面白きもののある世を父は去りたり 改悪例1

霜降りのレアステーキなど面白きもののある世を父は去りたり 改悪例2

(中略)

いや、霜降りのステーキは実際にいいもので、ぼくも三者択一でこの中から選ぶなら、霜降りのステーキを選ぶけれども、それは生身だから選ぶんであって、短歌的には、それはぜんぜん違う。

(中略)

短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。

 

しょっぱなから引用しまくり。

個人的にいちばん「なるほど~」と思った部分を引用しました。上にあるように、優れた短歌の改悪例を示すことで短歌の本質をあぶりだす手法が本書の特徴です。

短歌の世界においては鯛焼きの縁のばり」が「ほっかほかの鯛焼き」や「霜降りのステーキ」よりも価値があると見なされる。それは何故か?ということを丁寧に解説してくれています。

つまり、短歌の中では、日常とものの価値がずれており、それは私たちが「生きる」と「生きのびる」の二重性を帯びていることに起因していて、短歌とは「生きる」ための言葉であると著者は述べています。

「生きる」とは自分らしさとかアイデンティティに関わるもので個人的なもの。だから「霜降りのレアステーキ」という誰もが価値を認めるようなものを詠んではいけないのです。誰もが価値を認めるとは、私がステーキの価値を認めたとしても私の代わりはたくさんいるわけで。それでは「生きる」ことにはならない。「鯛焼きの縁のばり」に価値を見出すことで私は人生の固有性を獲得する......という感じでしょうか。

短歌とは人生の固有性を記録する言語なのです。なんて反資本主義的なんだ。

なんだか消化不良気味だけど今日はここまで。